沖縄に行ったら1つは首里城以外の城址に行きたいと思っていました。しかし、いつの間にか時間が無くなってしまい、海中道路に行った後にたまたま近くにあった「勝連城」に行きましたが、本当にきれいな城址でかなりおすすめです!
小さな山に登るような感じですが、天気が良ければ景色も最高なのでハイキング気分でも楽しいと思いますが、実際に沖縄の歴史を感じながら登るとより楽しいと思います。
1.勝連城とは
勝連城は初代城主が勝連按司(按司とは地方の権力者、豪族のこと)という人によって治められていました。その後、子供ができず、養子をとったりして、伊波按司、浜川按司とつながり、9代目に茂知附按司が圧政を敷き酒に溺れたために、人々の信頼が厚かった阿麻和利(あまわり)によって倒され、阿麻和利は10代目の城主となって、海外貿易によって勝連に反映をもたらしたそうです。
2.阿麻和利とは
阿麻和利は勝連で貿易を行うことで反映していて、その勢力に脅威を感じた当時の琉球国王の尚泰久は、重臣の護佐丸を中城城(なかぐすく)に住まわせ阿麻和利を牽制して、さらに、自分の娘である「百十踏揚(ももとふみあがり)」を阿麻和利に嫁がせました。重臣に見張らせ、さらに王である自分の娘を嫁がせるなんて、かなり尚泰久は阿麻和利を恐れていたのだとわかります。阿麻和利は住民からも慕われていたようですし、貿易によって反映していたので、脅威に感じていたんでしょう。
当時の沖縄は統一されたといっても、まだ戦国時代のようなもので、阿麻和利は自身で天下統一を目指すようになり、1458年に護佐丸を倒し、琉球王府打倒を考えますが、それを王の娘である妻と、妻の付き人でとても体が大きく武勇に優れていた鬼大城(うにうふぐすく)言われる大城賢雄(うふぐすくけんゆう)に知られてしまいます。
その二人が国王に危機を知らせたことで、阿麻和利は大城賢雄率いる軍に滅ぼされてしまいました。
多くの歴史書で、護佐丸は謀反の濡れ衣を着せられて攻められても、抵抗せず自害した忠臣として書かれ、阿麻和利は悪者として描かれているそうです。しかし、歴史書の多くは後に権力を持った人が自分たちに都合の良いように書くものです。事実、後の研究で阿麻和利は名君であったとわかったそうです。さらに、二人の強い武将「護佐丸」「阿麻和利」の力を恐れた琉球王府が二人を倒すために仕掛けたという説もあります。
ちなみに、当時の琉球国王の尚泰久の娘で、阿麻和利に嫁いだ「百十踏揚(ももとふみあがり)」はその後、自分の付き人で一緒に阿麻和利の反乱を琉球王府に伝えた「大城賢雄(うふぐすくけんゆう)」と結婚します。そう聞くと、父親である王に国を守るために旦那である阿麻和利を裏切るように言われたのだというような気もします。たぶん、王は「大城賢雄に阿麻和利を倒せば娘を嫁にやる」というようなことを言ったのでしょう。
しかし、最終的には大城賢雄も王府の陰謀によって殺されてしまって、奥さんである百十踏揚は2度夫を失って、晩年は寂しい隠居生活を送ったと言われています。
3.勝連城へ
無料の駐車場があったので、そこに車を停めて勝連城を見学しに行くことにしました。駐車場のところに資料館があったのですが、その前で何やら人がいたので話しかけてみるとどうやらその日はたまたま無料でガイドをしてくれる日だというので、お願いすることにしました。ガイドさんは現地のおばさんで、とても勝連城と阿麻和利に詳しく、丁寧に教えてくれる人でした。
勝連城はもともとは船のような形をしていたようですが、片側の復元作業がなかなか進んでいないので、今では当時と違う姿になっているようです。
勝連城に行くにはまず手前にある長く緩やかな坂を登っていきます。
沖縄のお城は堀がないですが、勝連城では堀の代わりに手前に池があったそうです。
現在城壁を復元中で、復元したところの石は白いきれいな色をしています。
勝連城の石垣は石垣の中にも石が詰まっていて大変強固な造りになっているそうです。元々は「西原御門」という門があったという場所を抜けて四の曲輪という広場に来ました。
ここには城壁のなかで暮らす人達の家があったと考えられているそうです。現在でも発掘作業が行われていて、貿易で得たと思われる中国製の陶磁器類や大和や高麗の瓦、中国、大和の古銭、玉類、銅製品、鉄製品、甲冑片などが発掘されたそうです。現在でも発掘作業が進められていました。
ここで生活していたと思われる井戸も現存しています。
ここは、「ウタミシガー」と呼ばれる井戸で、旧正月の元旦に井戸の水量を見て、水が少ないと豊作、水が多いと凶作という風に占いに使われたそうです。
四の曲輪から三の曲輪へと階段を登っていきます。
勝連城の造りは階段を登るときに必ず右側が壁になるように作られています。これは、敵が来た時に、人はほとんど右利きなので、刀を抜いてすぐに応戦出来ないようにしたり、上から来る敵と戦うときに刀を振りにくくするような造りだそうです。
さらに、階段も足がはみ出るくらい幅が狭くなっていて、上に行くほど幅が狭くなっています。これは、敵が一気に登れないような造りなんだそうです。
こんなに、堅固な城なのに、なんで攻められて負けてしまったんだろうと思っているとガイドさんが教えてくれました。阿麻和利は大城賢雄が攻めてきたときに、最初は城門を固く閉ざして戦っていたそうです。しかし、城の外には住民が取り残されていて、城の中に入れてほしいと頼みます。城の中の人の家族もいるので、城内の人は住民を引き入れようとして城門を開けてしまいました。
そのときに、大城賢雄の軍はノロと呼ばれる本土の巫女のような人たちに化けて城内になだれ込んだそうです。これだけ堅固な城なら簡単にやられないと思っていましたが、負けてしまった理由はそういうことだったんですね。
さらに、三の曲輪から二の曲輪に上がってきました。
ここには大きな屋敷があったそうで、後が残っています。
ここは、火の神様「ウミチムン」があり、台所があった場所だと考えられているそうです。沖縄では今でも主婦が家族への加護を願って、台所で火の神様をまつっているそうです。
ここから更に登って一番上の一の曲輪をめざします。古い石畳は結構急な坂道になっていて、すべりやすく危ないです。
一の曲輪の位置は標高約100mくらいで、周りに高い山がない沖縄ではかなり遠くまで見渡すことができます。
ガイドさんが言っていましたが、ここは沖縄本島の3分の2が見渡せるそうです。戦国時代に栄える勝連に住んで、この眺めを見ていたら天下を狙ってみたくなるんじゃないかと言っていましたが、確かに阿麻和利もここでそんな気分になったのかもしれません。
本土の城では一番上には天守閣があるのですが、勝連城では一番高い一の曲輪の位置には貿易などで得た宝物を保管していたようです。また、「玉ノミウヂ御嶽」という聖地があり、地方の権力者である按司(あじ)の守り神を祀っていた拝所で、大きな石は勝連を守る霊石なのだそうです。
ちなみに、ここには穴が開いていて、二の曲輪にあるウシヌジガマという洞穴と、さらには城の外に通じていて、阿麻和利はその穴から落ち延びたのではないかという伝説もあるそうです。生き延びた伝説がある人はその人のことを「生きていてほしい」と願った人たちが考えた伝説だと思っているので、そういう伝説がある阿麻和利はやっぱり領民に慕われていたのではないでしょうか。
一の曲輪は本当に景色が良く、遠くまで見渡せることができました。空には米軍のヘリが飛んでいてオスプレイも見ることができました。結構うるさかったので、沖縄の土地を静かにしてほしいと感じました。
ガイド付きで見学して大体1時間くらいでしたが、ガイドさんの説明が面白く、見学に1時間くらいかかってしまいました。初めてガイド付きでこういったところを見学しましたが、ガイド付きって良いですね。他にもこういうところがあれば利用してみたいと思いました。
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