三十三間堂のすぐとなりにあるのですが、全然有名ではないお寺「養源院」に行ってきました。ここは、有名ではないけど、三十三間堂に来たのなら、歴史が好きならぜひ寄って行ってほしいお寺です。
近くに行くと木の立て札に大きく「血天井」と書いてあるのですぐにわかります。
・血天井とは?
養源院の天井には血のついた板が使われていて、これが「血天井」と呼ばれるものです。血天井の血は徳川家康の家来であった「鳥居元忠」の切腹したときの血です。
鳥居元忠は徳川家康が三河にいた頃からの家来で、徳川家康がまだ今川家の人質だったころからの側近です。そんな鳥居元忠はずっと徳川家康に忠実に従ってきて、いつの間にか60歳を過ぎていました。
豊臣秀吉がいなくなって、世の中がもう一度荒れそうなときに、徳川家康は鳥居元忠を呼び出しました。このとき、徳川家康は石田三成と戦うことを決心していましたが、自分から攻めるわけにはいかず、戦のきっかけは石田三成に攻めさせたかったのです。
そのために、徳川家康は会津で逆らっていた上杉を討つという名目で大軍を率いて東に向かい、自分の留守を石田三成に攻めさせて戦を始めようと考えました。
そのためには、石田三成に攻めやすい城を用意しないといけません。そのため京都の伏見城に鳥居元忠と部下3000人で立てこもってほしいと頼みました。徳川家康としては長年の忠臣に対して「死んでほしい」と言うのと同じことだったので、言い難かったと思います。
しかし、鳥居元忠は武士として戦で死ねず、逆にこんなに良い死に場所を与えてくれて感謝しますと徳川家康に伝え、さらに3000人も兵がいてもどうせ多く死んでしまうから、なるべく多くそのあとの戦いのために連れて行ってくれと頼み、徳川家康は感激して深夜まで酒を酌み交わしたそうです。
その後、徳川家康が兵をおこして会津に向かうと、計算通り石田三成は鳥居元忠が守る伏見城に攻め込みました。1800人の兵で13日間の攻防の末、戦いの中で無くなったとも、残った部下と一緒に自害して果てたとも言われています。
亡くなったあともすぐには死体を弔うことができず、廊下に血の跡が残り、伏見城の遺構を使って養源院を再建したときに、鳥居元忠たちの自刃した廊下を踏むことができないとして、天井に使って霊を弔ったそうです。これが血天井の話です。
・養源院は織田家、豊臣家、徳川家が関係している
養源院は豊臣秀吉の側室で、織田信長の妹のお市の方と浅井長政の娘の淀殿が、父である浅井長政の弔いのため、浅井長政の二十一回忌に豊臣秀吉に願って養源院を建立し初代の住職には浅井長政の従弟である成伯に頼みました。
養源院とは浅井長政の院号(院号は戒名や法名の中で社会的に地位の高い人につける院の文字をつけたもの)です。
1594年(文禄三年)に開山しましたが、その後火災にあって消失してしまいました。そして、淀殿の妹で、徳川家2代将軍の徳川秀忠の妻である、大河ドラマにもなった「江」がお願いして、伏見城の遺構を使って再建されました。
以来、徳川家の菩提寺となっていて歴代将軍の位牌を祀っています。
・養源院へ
さっそく養源院の中に入りました。観光客はほとんどいませんでした。門も他の京都の有名な観光地に比べると小さく質素です。
参道はきれいで、少しだけ紅葉していました。
本堂の入り口には葵の御紋が大きく掲げられています。
中に入ってお金を払うと、おばあさんが一緒について来てくれます。そして、途中途中で手に持ったカセットテープで養源院の説明をしてくれます。
血天井の場所では、鳥居元忠の体の跡を教えてくれました。確かに、体の跡のような形のシミが見えます。他にも手形のような形のシミもあり、何百年も前にこの板の上で大勢が壮絶な死を遂げたことがわかります。
他にも、養源院は俵屋宗達の襖絵も有名で、当時像がいなかったことから想像で描いたという像の絵はかわいらしく、現在のマンガのような絵の雰囲気があります。
他に、浅井長政や徳川家の位牌の説明もしてくれました。なんだか聞けば聞くほど面白いお寺なのに、なんでこんなに無名で観光客が少ないのだと思ってしまいます。
歴史好きな人は養源院おすすめですので、ぜひ行ってみてください。
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