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大河ドラマになってほしい大久保長安の生涯を描いた小説「大久保長安」の感想と書評

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なんとなく、名前は聞いたことがあったけど、石見銀山の奉行というくらいしか知らなかった「大久保長安」という人物ですが、この人、なかなかおもしろい人生を歩んでいます。個人的には、この人の人生は大河ドラマになってもおかしくないくらいの立身出世の人生です。

そんな大久保長安の人生を書いた、齋藤吉見さんの小説を読んでみました。

大久保長安とは?

まず、名前の読み方ですが、「おおくぼながやす」です。「おおくぼちょうあん」と読んでいましたが。それは、間違いでした。

by カエレバ

大久保長安は天文14年(1545年)に猿楽師(能役者)の大蔵太夫の二男として生まれます。子どもの頃は美童として、有名で父親に連れられて、多くの人の前で猿楽を披露する生活をしながら、旅をするという生活をしていましたが、石山本願寺の法印の池田頼龍に認められ、その紹介で当時京都に住んでいた細川藤孝(細川幽斎、肥後細川氏の祖となった人)に会い、その後、武田信玄に招かれることになります。

少年時代の大久保長安は、能で有名な「世阿弥」を目指していましたが、能などの文化に詳しい細川藤孝に才能はあるが、世阿弥にはなれないと言われたことで、能の役者として大成するという夢を諦めます。

武田信玄の元で能を披露しますが、その後は武田家の内政に関わることになり、税の取り立てや、治水、土木工事、測量などの仕事につき、金山などの管理も任せられるようになりました。

 

徳川家康に仕える

その後、武田家が織田信長によって滅ぼされ、徳川家康の家臣、大久保忠隣によって徳川家の家臣になるよう誘いを受けます。当初、織田信長は武田家の家臣は一切残さず滅ぼすようにと言われていましたが、徳川家康は武田家の家臣たちは有能な者が多いことをしっていたので、こっそりかくまっていました。大久保長安は、そのうちの1人でした。

次に仕えるべき人を徳川家康か織田信長か決めかねていた大久保長安は、織田信長のところへ使いを出し、自分を召し抱えてもらえるようにお願いします。その後、長安は信長と直接対面します。

長安は、信長が毛利を攻めている本当の理由は「石見銀山」にあるということを見抜き、そのことを信長に伝えます。長安は、当時、日本で取れた銀がポルトガルとの交易に非常に大切であることを仲間の商人たちを通じて知っていたため、京都で細川藤孝と共に面識のあった明智光秀に、信長から石見銀山を任せるように提案し、信長は光秀に石見方面を攻めるように指令を出します。しかし、その後、明智光秀が謀反を起こし、本能寺の変によって、信長が死んでしまって、結局、徳川家康に仕えることになります。

徳川家康の元で最初にした仕事は、大久保忠隣の下で旧武田の領地を治めるために必要な内政をすることでした。武田家が滅亡したあとの武田家の旧領には、織田信長の配下である川尻秀隆が治めていましたが、信長の言いつけ通り、旧武田家の家臣たちを弾圧していたので、地元の人達から恨まれていて、信長が死んだ後に民衆に殺されてしまいました。

その後、大久保忠隣と共に大久保長安が来て、元武田家の家臣だった長安がまとめることで、旧武田の領地をうまくまとめることができたのです。

 

本多正信との確執

徳川家康の元に仕えるようになり、大久保長安は出世していきます。関ヶ原の戦いでも、木曽衆と呼ばれる者達を味方に引き連れて来て、役にたちました。その後、大久保の性を与えられて「大久保長安」になります。

大久保忠隣、大久保長安の二人が出世していくことを快く思っていなかったのが、本多正信、本多正純親子です。この本多正純は徳川家康の家臣として、家康の信頼も厚く、内政に関しては大きな力を持っていて、戦がなくなってきた世の中で徳川家康の期待に応えて内政に力を注いでいました。

江戸に幕府が開かれたあと、江戸には2代将軍秀忠と、その側近として大久保忠隣、駿河に徳川家康とその側近として本多正純、その調整役として本多正信がいました。そして、大久保長安は120万石に相当する幕府直轄の領地を統べる代官になります。

大久保長安は、もともと関心のあった石見銀山を任せられるようになり、ポルトガルから取り寄せた鉱山に関する書物を勉強して、鉱山の生産を上げ莫大な富を徳川家にもたらしました。

当時、内政は本多正信、正純親子の「本多党」と大久保忠隣、大久保長安の「大久保党」に分かれていて、本多正信は大久保党の成功を快く思っていませんでした。

 

大久保長安の死後

大久保長安の死後、本多正信、本多正純親子によって、長安の屋敷の調査が行われました。容疑は「隠し財産」。金山、銀山の管理をして、幕府の金をかすめ取ったという疑いで、結局、大久保長安の7人の息子たちは全員斬首になりました。

長安の嫡子である藤十郎は、不正なことはしていなく、幕府に対して税を払った残りの資金を蓄財していたと言っていたのですが、聞き入れられませんでした。これが世に言う「大久保長安事件」です。

この事件の真相は、本多正信、正純親子による、大久保忠隣、大久保長安の大久保党を失脚させるための陰謀だったとも、徳川家康が大久保長安の財力と権力を警戒したことへの粛清とも言われています。また、不正を行う代官への見せしめとも言われています。

 

その後

この小説、齋藤吉見著の「大久保長安」は、子どもたちが粛清されたあと、大久保長安の妻が1人で信州で暮らしているというところで終わります。その後、大久保忠隣も豊臣家と内通しているとの嫌疑がかけられて失脚してしまい、徳川家を支えていた大久保忠隣、大久保長安の二人とも政治の舞台からいなくなってしまいます。

これで万全かと思われた本多正信、本多正純親子ですが、本多正信が亡くなって、徳川家康も亡くなったあと、2代将軍秀忠の時代に失脚してしまいます。結局、本多家も徳川幕府に残ることは出来ませんでした。

 

大久保長安の人生

能の世界で活躍することを諦め、次に目指した道が「内政のスペシャリスト」、特に鉱山の管理でした。そして、描いた夢の通り成功し、莫大な利益を得ることになります。

大久保長安の人生は、戦国の世に生きた中では異質の戦場以外で出世していく道でした。そのため、当時、戦場を駆け回って手柄をたてて出世していった徳川家の家臣立ちからは疎まれたりしていました。

しかし、大久保長安は自分の適性を見極め、必要とされている能力を身につけることで、出世していく、自分の道を冷静に見極められる、戦国時代に珍しい武将だったと言えるでしょう。この人生は戦国時代を別の角度から見るという点で、古田織部の人生を描いた「へうげもの」と同じくらい面白いと思います。

by カエレバ

個人的には大河ドラマになって、当時の銀の製法や、税の仕組みなど、戦国時代の戦いの面を解説してもらいたいと思っています。

 

大久保長安の埋蔵金

ネットで大久保長安のことを検索すると埋蔵金の話も出てきます。

by カエレバ

小説の中でも、武田家が滅亡したときに、財産である金を隠したという話が出てきます。徳川家康が恐れたという程の財産があったと言われた大久保長安なので、隠し財産があってもおかしくないと思います。

もしかしたら、当時の管理していた領地のどこかで今でも長安の埋蔵金が眠っていると思うと、なんだかワクワクしますね。

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